歴 史

自然への畏敬から始まった日吉信仰

 日吉大社の参道・日吉馬場のゆるやかな坂道を歩いていくと前方にこんもりとした円錐形の山が見えてきます。これが古代より神備山[かんなびやま]として畏敬されてきた八王子山(牛尾山)です。
 八王子の山頂近くには巨大な磐座[いわくら]があり、これを「金大巌[こがのねおおいわ]」といいます。ここに山神様が宿っておられたといわれ、この神様をお祀りしたことから日吉社(現在の日吉大社)が始まったと伝わります。およそ2100年前のことです。
 八王子山を含めた広大な日吉大社の境内には、『古事記』にも記されている古くからの地主神・大山咋神に加え、後に天智天皇が大津京遷都にともなって大和の三輪山・大神神社[おおみわじんじゃ]から大己貴神[おおなむちのかみ]をお招きされました。以来、大山咋神を祀る東本宮と、大己貴神を祀る西本宮の両本宮を中心にたくさんの神様をお招きし、最盛期には山王二十一社をはじめ他87の末社が鎮座し、「山王百八社」と称されていたそうです。

延暦寺との神仏習合によって栄える

 この2柱の神様と境内全ての神様は「日吉大神[ひよしおおかみ]」と呼ばれ、広く民衆に信仰されていました。
 延暦11年(794)に桓武天皇が平安京(京都)を開いたとき、日吉社は京の表鬼門(東北)にあたることから、鬼門除け、魔除け、厄除けの神として信仰されるようになり、天皇や上皇をはじめ藤原摂関家の人々の参詣が相次ぎました。
 一方、延暦寺を開いた伝教大師・最澄が天台宗の護法神[ごほうしん]とされてから、神仏習合を深めて「山王権現[さんのうごんげん]」といわれるようになり、神と仏は深い縁によって結ばれていきます。
 山王権現は「山王(さんのう)さん」と親しみをこめて呼ばれるようになりました。山王権現とは仏・菩薩(ぼさつ)が人々を救うため、仮の姿をとって神様として現れることをいいます。これを本地垂迹(ほんじすいじゃく)ともいます。
 こうした神と仏の習合によって、天台宗の寺院には鎮守(まもり神)として山王社が建てられたため、天台宗の興隆とともに全国に山王信仰は広がり、神様の権威はいっそう高められました。
 中世になると、山王信仰の神威を背景にして、延暦寺の僧侶が朝廷や幕府に強訴するとき神輿[しんよ]を担ぎだしたことは有名です。これを「神輿振[みこしぶり]」といいます。

自然と神と仏へ向かう心

 戦国時代の元亀2年(1571)、織田信長の焼討ちにより日吉社も建物・神輿のすべてを失いますが、豊臣家の援助で再建され、その後の復興は江戸幕府によって順調に進みました。
 元和2年(1616)、その復興を援助した徳川家康が没したとき、山王一実神道を唱えていた天台僧、慈眼大師・天海[じげんだいし・てんかい]は、朝廷の許しをえて家康の霊を「東照大権現[とうしょうだいごんげん]」として日光東照宮に祀りました。坂本にはその雛形ともいわれる日吉東照宮があります。
 明治の神仏分離により、日吉社は延暦寺から独立し官幣[かんぺい]大社となり、第二次世界大戦後は日吉大社と称されるようになりました。
 神仏分離で、延暦寺との境内神域は分離することになりましたが、山王祭をはじめ数々の行事には神仏習合の伝統が継承されてきました。近年では互いの祭礼や仏事に関わる機会も増え、神仏習合のなかにあった信仰心が見直されています。