比叡山の表玄関

※1

現在公開されている公人屋敷は、代々公人を務められた岡本家から、家屋の一部を地域の歴史的遺産の保存を目的として大津市に寄贈されたものです。平成17年には主屋、米蔵、馬やの歴史的価値が認められ、大津市指定文化財(建造物)となりました。

地の利の良さから湖上交通の要衝に

 坂本は、比叡山に源を発する大宮川や藤木川(権現川)などが形成した扇状地に立地し、前面に光り輝く琵琶湖が広がる風光明媚な土地です。この地には古代の人々の足跡を伝える遺跡が残されており、なかでも古墳時代後期の古墳群が多く見られます。日吉大社境内地にある日吉古墳群は、6・7世紀のもので、朝鮮半島の古墳と共通するところから、渡来系氏族の古墳と考えられています。
 比叡山麓には、こうした古墳群が数多くみられ、早い時期に湖西の地に渡来系氏族が入植していたことを想像させます。最澄(伝教大師)もまた三津首[みつのおびと]という渡来系氏族の末裔だと考えられています。
 最澄によって延暦寺が創建され、円仁・円珍・良源といった高僧の輩出が続くなかで、延暦寺は鎮護国家の寺として朝廷の崇敬を受け、全国に荘園を持つ一大権門寺院へと成長を遂げていきます。延暦寺の隆盛は、山麓の坂本に繁栄をもたらしました。
 比叡山の山麓は、東の坂本だけではありません。西側の山麓、つまり京都側もその影響下にありました。青蓮院門跡や三千院門跡(梶井門跡)をはじめ、天台系の有力寺院が京都に拠点を構えていたとおり、延暦寺は政治的にも経済的にも大きな影響力を発揮していたのです。比叡山を挟んで、京都側を西坂本、近江側を東坂本と呼ぶこともあり、一体の勢力圏を形作っていました。とくに東坂本の大きな特徴は琵琶湖を擁していたことです。
 前近代の重要な交通手段は船でした。日本最大の湖「琵琶湖」は、東国や北陸からの物資運搬の重要幹線として大きな役割を果たしていました。京都方面に物資を運び出す湖西の玄関口となったのが坂本です。

経済力をもった坂本の盛衰

 湖岸に面した下阪本は、浜坂本とも三津浜(志津・戸津・今津)とも呼ばれ、延暦寺への物資をはじめ、京都に向う物資の陸揚げ港としても賑わっていました。
 中世の記録では、北国海道(西近江路)と比叡山への道が交わる、比叡辻や富崎に馬借・車借[ばしゃく・しゃしゃく]と呼ばれる運送業者が集住していたとあり、その力は大きく土一揆[つちいっき]はしばしばこの地を起点に蜂起していました。また、坂本には土蔵・酒屋などの金融業者や問丸[といまる]と呼ばれる運送に携わる商人も多く見られ、坂本は門前町であるとともに、日本を代表する経済都市へと成長していったのです。
 永享6年(1434)延暦寺の大衆[だいしゅ](仏僧の集まり)が室町幕府と対立したことから、将軍足利義教は諸大名に命じて坂本を攻撃させ、坂本の町は兵火によって焼かれます。幕府と対立するまでの力を延暦寺や坂本の町が持っていたことを示す出来事でした。
 その後も坂本の馬借が、徳政を要求して蜂起する土一揆が起ったりしています。坂本の大きな経済力が、こうした事件を生んだのです。
 そして延暦寺と坂本に大きな打撃を与え、その基盤を崩壊させたのが、元亀2年(1571)の織田信長による比叡山焼討ちでした。山上山下とも炎に包まれ、壊滅的な被害を受けることになります。また豊臣秀吉により、琵琶湖船運の拠点が大津に移され、ここに下阪本の港町としての役割も終わりを告げました。

江戸時代の坂本の機能と公人

 延暦寺・日吉社の復興は秀吉の時代からはじまりますが、この大事業が完成するのは江戸時代になってからです。そして山門の復興は坂本の再生でもありました。坂本の街並みは、中世の道や社をそのままに復興したと考えられています。山下での僧侶の住まいである里坊や日吉社の社家や宮司が住む空間、堂舎の復興に携わり、後には維持管理に携わる大工や屋根屋などの職人、山上山下の日常生活を支える商人といった様々な人々の生活の場が形づくられていきました。
 ただ、延暦寺の経済力は坂本や下阪本などの五千石を認められただけで、往時の力が復活することはありませんでした。そこに中世と近世の坂本との大きな違いが認められます。とはいえ、延暦寺を支える機能に変りはありませんでした。
 この町独自の制度として「山門公人[さんもんくにん]」と呼ばれる集団があり、俗人でありながら得度し、延暦寺を支えていた人々を指します。延暦寺は三塔十六谷に別れ、それぞれに院や坊がありますが、その院や坊に所属し、年貢の収納や仏事などの諸事を担っていました。延暦寺の運営を滞りなく進めることが公人の役割であり、その存在は坂本の安定に大きな役割を果たしていました。
 坂本にある「公人屋敷(※1)」を訪れると、当時の公人たちの暮らしぶりを知ることができます。