歴史2
最澄の志を受け継ぐ

台密の完成

 伝教大師・最澄は天台だけにとらわれず、円(天台)、密、禅、戒を備える四宗兼学の場とすることを願いました。最澄が樹立した大乗仏教の思想と教育理念は、優れた弟子たちによって受け継がれ発展していきます。
 天台宗に伝わる密教を台密[たいみつ]といい、最澄の弟子、慈覚大師・円仁[じかくだいし・えんにん](794~891)や智証大師・円珍[ちしょうだいし・えんちん](814~891)の入唐求法によって確立し、円仁の弟子であった五大院安然[だいごいんあんねん]が大成しました。台密とは胎蔵[たいぞう]・金剛[こんごう]・蘇悉地[そしつじ]による三部建ての密教をいいます。台密とは、空海を祖とし東寺を本山とする真言密教を東密[とうみつ]と呼ぶのに対する呼称です。
 円仁は東塔・西塔の伽藍を整備するとともに横川を開き、円仁の弟子の相応和尚[そうおうかしょう/831~918]は修験道を取り入れて千日回峰行を創始しました。
 円珍は、最澄が建立当初、薬師・文殊・経蔵の三堂で構成されていた根本中堂を、九間四面の大堂に立て替え、現在の形式にしたことでも知られます。また園城寺(三井寺)を天台別院として再興。ここを伝法灌頂の道場とし、「唐院」を設けて唐から持ち帰った典籍を収めます。後に叡山の山門派と対峙する園城寺寺門派のもとになりました。

中興の祖、慈恵大師・良源の登場

 18世座主となった慈恵大師・良源[じえだいし・りょうげん](912~985)は、中興の祖といわれます。大火によって荒廃した根本中堂等の多数の堂宇の再建や僧風の刷新を行い、組織的にはそれまで東塔の支配下にあった西塔・横川を独立させ、三塔十六谷と言われる陣容の基盤を完成させ、住僧の数は三千ともいわれる繁栄をもたらしました。
 また慈恵大師・良源は、亡くなったのが正月の3日であったことから元三大師ともいわれ、また「角大師」「豆大師」とも称されて広く一般民衆にも信仰されてきました。
 その門下にいた源信(942~1012)は世俗化を嫌い念仏三昧の修行に徹しました。源信が書き表した『往生要集』の影響は大きく、延暦寺から鎌倉時代の新しい仏教の宗祖となった、法然[ほうねん]・親鸞[しんらん]・栄西[えいさい]・道元[どうげん]・一遍[いっぺん]・真盛[しんせい]などを輩出します。

暗転する比叡山

 中世には、山門派(延暦寺)と寺門派(園城寺)の抗争が激しくなり、日吉社の神輿を担いだ衆徒が都に強訴する事件も多発。山門の武力を利用しようとする勢力も現れ、比叡山は政争の場となります。
 やがて戦国時代となり、織田信長の焼討ち(1571)によって焦土と化した比叡山は、存続の危機を迎えます。本格的な復興をもたらしたのが慈眼大師・天海[じげんだいし・てんかい](1536~1643)でした。

国家鎮護の山として再スタート

 天海は、慶長12年(1607)比叡山の探題執行[たんだいしっこう]に任ぜられてから、根本中堂や大講堂の再建など比叡山の本格的な復興に乗り出しました。同時に徳川家康をはじめ秀忠、家光と徳川三代にわたって厚い信頼関係を築き、関東の東叡山・寛永寺の創建や日光東照宮の再興などを精力的に行う傍ら、戦禍を逃れた天台典籍を整理・集積した一大文庫「天海蔵」をつくるなど、最澄の教え「忘己利他[ぼうこりた]」を貫いて天台教学の振興に生涯をささげました。
 なかでも天海が遺した大きな足跡といわれるのは、徳川家康没後、山王一実神道[さんのういちじつしんどう]を唱えて家康を「東照大権現」という神に祀り、250年の徳川幕藩体制を支える精神的な支柱をつくったことです。
 明治維新後の延暦寺は、神仏分離や廃仏毀釈の苦難を乗り越えてきました。現在も修行の聖地としてまた鎮護国家のお山として数々の行と祈願をおこない、不滅の法灯を守っています。
平成6年(1994)にはユネスコ世界文化遺産に登録。比叡山の美しい自然環境の中で守られてきた1200年の歴史と伝統が、世界に高い評価をうけることになりました。