神仏習合の聖地

※1

『古事記』には「大山咋神は近淡海国の日枝の山に坐し」とあり、日枝の山に大山咋神が宿っているとされていたことがわかります。古代には比叡山は日枝山[ひえやま]と表記され、後に比叡山といわれるようになりました。

神と仏は比叡山で出合った

 比叡山は、古くから神の宿る山として崇敬されてきた霊山です。『古事記』に「日枝の山に坐す」(※1)と記された大山咋神[おおやまくいのかみ]は、地主神として地域の人々に敬われていたと考えられています。また日吉大社境内にある牛尾山(通称八王子山)山上近くにある金大巌[こがねのおおいわ]と呼ばれる巨岩は、古代信仰の磐座(神が降臨する場所の目印)とされ、眼下に琵琶湖や湖南の平地を見下ろす聖地にふさわしい場となっています。
 このように比叡山東山麓の坂本に位置する日吉社は、はじめ大山咋神を祀る地域の社[やしろ]でしたが、後に天智天皇が都を大津に遷都された翌年の668年、奈良・三輪山(奈良県桜井市)の大神神社[おおみわじんじゃ]から大己貴神[おおなむちのかみ]を勧請し、日吉社に祀られるようになったといわれています。現在の西本宮がそれで、地域の神にとどまらない拡がりがそこに生まれました。
 この霊山を仰ぎ見て育った最澄(伝教大師)は、当時の仏教に疑問を感じ、比叡山に籠って修行を重ね、一乗止観院を創建します。時に延暦7年(788)のことで、その18年後の延暦25年(806)には鎮護国家の祈祷道場として延暦寺は国家から公認されます。こうして南都六宗から独立した天台宗が誕生し、日本に新たな仏教の系譜が生まれたのです。
 日吉社は別名「山王」とも呼ばれますが、これは中国の天台山国清寺に守護神として祀られている山王祠(山王元弼真君)に因むと言われており、最澄が入唐求法[にっとうぐほう]の旅から戻ってきた時、天台山にならって付けたとされています。こうして日吉社は、延暦寺を守護する神として位置づけられ、延暦寺の発展とともにその信仰は深化していきました。
 大己貴神は、大比叡神[おおびえのかみ]、大山咋神は小比叡神[おびえのかみ]とも称され、元慶4年(880)には、大比叡神が正一位、小比叡神が従四位上に昇叙され、延暦寺の発展とともに、日吉社の地位が上がっていったことがうかがえます。比叡山で生まれた新たな仏教は、日吉の神々によって護られ、神仏一体となって国家を守護する役割を担うことになったのです。

本地垂迹によって深まる

 やがて、本来別々の存在であったはずの神と仏を一体のものとする本地垂迹説[ほんじすいじゃくせつ]が唱えられるようになると、日吉の神々もそのように解釈されていきます。本地垂迹説は、仏菩薩が衆生済度[しゅじょうさいど]のため、仮に神の姿となって現れたとする考え方で、本来の姿を本地仏、その仮の姿を垂迹神と呼びました。日吉社の主要な神々である上七社の場合は、次のとおりです。

 西本宮(旧称:大宮) 本地仏;釈迦如来
 東本宮(旧称:二宮) 本地仏:薬師如来
 宇佐宮(旧称:聖真子)本地仏:阿弥陀如来
 牛尾宮(旧称:八王子)本地仏:千手観世音菩薩
 白山宮(旧称:客人) 本地仏:十一面観世音菩薩
 樹下宮(旧称:十禅師)本地仏:地蔵菩薩
 三宮宮(旧称:三宮) 本地仏:普賢菩薩


 神仏習合の思潮が発展していくなかで、天台の教理から日吉の神々を位置づけ、その信仰や儀礼を解釈していく「山王神道」が生まれます。例えば、山王上七社と北斗七星を同体と捉え、天台密教の修法(星宿法)に取り入れるといった形です。こうした神仏習合の姿は、山王曼荼羅図や御正体などの美術作品として残され、日吉社の本殿にもその痕跡を認めることができます。明治初年の神仏分離令によって日吉社境内の仏教的な施設や仏具は全てその姿を消しますが、本殿の床下に「下殿[げでん]」と呼ばれる空間が残されました。「下殿」は上七社の本殿内陣の下にあるもう一つの祭祀空間を指し、仏事が行われていた可能性が指摘されています。神仏習合の姿を具現する建造物だったといえるでしょう。
 中世の延暦寺は全国に荘園を持ち、膨大な末寺を抱える一大権門寺院でした。その守護神である日吉社も全国に勧請され、多くの山王系の神社が存在し、現在も信仰されています。その総本宮としての風格を日吉大社は、今も脈々と伝えており、その歴史の中に神仏一体だった時代を偲ぶことができます。