※1

侍真とは、伝教大師・最澄の真影[しんえい/実物そのままの姿)をお守りする僧のこと。今も最澄が生きているかのごとく「真影に侍(はべ)る」というところから侍真僧(じしんそう)といわれます。

※2

大乗とは、「悉有仏性[しつうぶっしょう/すべての生命は仏となる本性をもっている]を基本とし「忘己利他[ぼうこりた/己をわすれて他を利する]」という菩薩道を説く教えです。

※3

戒壇院とは、僧尼に戒律を授けるために設ける戒壇のある建物をいいます。日本では鑑真が754年に東大寺大仏殿前に設置したのがはじまりで、下野の薬師寺、筑紫の観世音寺の3つの戒壇のいずれかで受戒することになっていました。これらは小乗戒の受戒が中心でした。

※4

贈り名。生前の事績への評価に基づく名のこと。

歴 史

横川の流れをくむ念仏道場

 西教寺は比叡山横川に通じる登り口近くにあり、眼下に琵琶湖を一望できる天台真盛宗[てんだいしんせいしゅう]の総本山です。正式名を戒光山兼法勝西教寺[かいこうさんけんほっしょうさいきょうじ]といいます。
 飛鳥時代の618年に聖徳太子によって開かれたと伝わります。当時は大窪山という山号で呼ばれていました。それから50年ほど経った天智6年(667)大津京が開かれたとき、天智天皇から「西教寺」という寺号をいただき、丈六[じょうろく]の阿弥陀仏像を安置されました。
 西教寺が本格的に大きくなったのは平安時代に入ってから。延暦寺の慈恵大師・良源[じえだいし・りょうげん](元三大師としても有名)が入寺されここを念仏の道場とされました。元三大師の後、入寺されたのは『往生要集』という本を書かれたことで有名な恵心僧都・源信[えしんそうず・げんしん]というお坊さんです。
 鎌倉時代の正中2年(1325)には、恵鎮上人・円観[えちんしょうにん・えんかん]が入寺し、伝教大師が提唱した大乗円頓戒[だいじょうえんどんかい]を復興させました。
 室町時代の文明15年(1483)には、比叡山より真盛上人が入寺され、堂塔と教義を立て直し、不断念仏の道場として多くの信者を集めます。
 当時は約10万坪の境内に42の堂塔伽藍が建ち並ぶ立派なお寺でしたが、信長の比叡山焼討ちの際(1571)に炎上。その直後に築かれた坂本城の城主となった明智光秀は西教寺の檀徒となり、復興に大きく力を注ぎます。こうして不断念仏の鉦の響きは絶えることなく山麓にこだますることになりました。天正10年(1582)にこの世を去った光秀は、6年前に亡くなった内室熙子や一族の墓とともに境内の片隅にひっそりと眠っています。

真盛上人と西教寺

 真盛上人(1443~1495)は伊勢の国、現在の一志郡[いっしぐん]にある大仰[おおのき]の里に出生されました。19歳の時、比叡山に登って慶秀和尚に師事し、20年間、山に籠って天台の学問を究めました。当時は応仁・文永の戦乱が続く下克上の時代でしたが、文明12年(1482)横川の黒谷青龍寺に入り、日課6万遍の称名念仏を修められます。
 このとき社会の秩序を正し、人々が安心して天命を全うするには、人の行うべき正しい道をさとす円戒と弥陀本願の念仏以外にないと悟られ、文明18年(1486)に入寺され、西教寺を戒称二門不断念仏の根本道場とされました。
 お話上手で、朝廷、公家、武士、庶民と、わけへだてなくお話になる上人の説法を聞くために大勢の人々が訪れるようになり、西教寺は活気づきました。
 その布教活動は滋賀から北陸、三重を中心に、北は北海道から西は神戸に及び、民衆から篤い支持を得ることになります。これがご縁となって、現在西教寺には全国に400カ所余りの末寺が点在しています。
 鎌倉時代の明応4年(1495)、上人は伊賀西蓮寺にて病に倒れ、無欲清浄・専勤念仏という言葉を残して53歳で遷化[せんげ]されました。

上人の手白のましら伝説

 明応2年(1493)坂本にて、馬借[ばしゃく]などが主体となって起こった土一揆は、徳政令[とくせいれい]の発布を要求して日吉社に籠り、山門側がそれを武力でもって弾圧に乗り出したことにより、日吉社の建物はことごとく焼かれ、消滅してしまいました。
 この土一揆の結末は悲惨なもので、日吉社に籠った400余人は山門の攻撃により焼死、あるいは殺されました。彼らの死骸は山のようであったといわれます。西教寺の僧侶はこれを哀れみ、敵味方関係なく一カ所にあつめて念仏回向[ねんぶつえこう](供養)をして葬りました。ところが、このことが山門の怒りに触れ、さらに一揆の首謀者を真盛上人と誤解したため、山門の僧兵が西教寺に攻め入ったといいます。
 しかしそのとき境内には人影がなく、ただ不断念仏の鉦の音だけが響くばかり。どっと中に踏み込んだ僧兵たちが見たのは、上人の身代わりに猿が念仏の鉦をついている光景でした。日吉山王の使者である猿までもが上人の不断念仏の教化を受け、念仏を唱えている、そう受け取った僧兵はその場を立ち去ったといわれます。
 このときの猿の手が白かったことから「手白のましら(猿)伝説」といい、上人の御徳は鳥獣にも及ぶほどであった証として語り継がれています。
 こうして寺を護る猿として「護猿[ござる]」となり、縁がござる、福がござるといって親しまれ、ごえんと呼んで「五猿」と書き、五匹の猿がお念仏を唱えている姿にして、西教寺では商売繁盛のお守りとしています。